一般社団法人 日本生物物理学会(生物物理について)

理論・シミュレーション

「生命の振る舞いを数学で記述する・理解する・予測する」

■背景 数学に基づく理論モデルやコンピューターを用いた理論モデルの数値的なシミュレーションは、力学・電磁気学・統計力学・量子力学などの古典的な物理では実験と並び、物理現象を理解するための不可欠の方法論となっています。計測技術の定量性や解像度の向上により、生物の物理学においても理論モデルやシミュレーションの重要性は近年高まっています(図1)。


図1 2つの遺伝子の相互抑制による制御機構(左)。その理論モデルのシミュレーション例(右)


図2 細胞周期に関わる反応を再現した詳細モデルのシミュレーション例。多数の分子とパラメータを扱う必要があるため、数式だけでの解析はほぼ不可能であり、数値的にモデルを解く必要がある。ここではCell Designer (http://www.celldesigner.org/)を用いた。


図3 反応拡散モデルが生成する空間パターンの例。(左)と(右)は異なる条件でのシミュレーションの例である。文献3に基づく。様々な模様のパターンだけでなく、細胞分裂のような自己増殖的な振る舞いも観察される。


図4 細胞による化学勾配感知の計算論的モデル。(左図)環境中の化学勾配の方向を検知する化学勾配感知の模式図。細胞は細胞膜上のレセプターの応答の差から勾配の方向を検知する。(右図)化学勾配感知の計算論的モデルのシミュレーション。確率的に応答するレセプターの振る舞い(上段)から、最適に勾配情報を取り出した際の振る舞い(下段)が計算論的なモデルによって予測されている。文献5より許可を得て一部転記。

■研究概要 生命現象を記述する理論やそのシミュレーションには主に2つのアプローチがあります。1つ目は、生命現象の素過程や既知の計測情報などをなるべく反映させ、その全体の振る舞いを定量的かつ正確に再現することを目指す詳細モデルです。ボトムアップモデルとも呼ばれることもあります。神経細胞の電気的な挙動を再現したHodgkin-Huxley のモデル(1963年ノーベル生理学賞受賞)は1つの好例といえます(文献1)。また、分子生物学的知見の蓄積に伴い、詳細な分子反応機構を取り入れたモデルも多くの現象について構築されています(図2)。もう1つの方向性は、現象の細部・詳細は簡略化し、生命現象の法則やそのメカニズムの本質をシンプルに表現する概念モデルです。現象論モデルとも呼ばれます。例えばチューリングによる反応拡散モデルは、模様などの空間パターンの生成メカニズムの一つを抽象的に表した理論モデルです(文献2)。この2つの間の区別は明確なものでなく、問題の質やどのくらい詳細な実験的知見が得られるのかにも依存するものです。例えばHodgkin-Huxley のモデルは当時計測可能な定量データを反映させていましたが、神経電気活動の分子生物学的な実体の面では現象論モデルに近く、それは当時の分子生物学的知見の限界も反映しています。一方、反応拡散モデルは、様々な生物の模様やパターンを定性的に再現してきましたが(図3)、最近では個別現象についてその分子的な実体を調べ、より詳細モデルに近い理解に近づいています。現象を記述するには、これらの特性をうまく理解して使い分けることが重要です。例えば詳細モデルで、闇雲に現象の枝葉の再現を目指したところでその本質の理解にはつながりません。また本質的な要素を表現したと考えられる概念モデルも、実際の現象との対応付けが不完全であれば説得力もなく、検証もできません。それは生命現象にかかわらず、物理現象を理論的に記述する際も同様です。

ところで、生命の理解にはその振る舞いを再現するモデルだけで十分でしょうか?これらのモデル(便宜的に物理モデルとここで呼びます)は現象を再現するので、例えばシマウマの縞がどのようにできるのか?のような問には答えられるでしょう。しかし、なぜシマウマは縞を持つのか?というような問には答えられません。このような問の背後には、生命システムは全てではないにしろ、ある種の合目的性を進化の選択を経た結果有し、現象自体にある種の意味合いや機能性があると期待されるからです。このような生命システムのもつ機能性やその最適性を記述する理論として計算論的モデルと呼ばれるものがあります。アリや動物が餌を探索する巧妙な行動を表した研究が古くからら知られています。また神経生物学では脳を情報処理機械ととらえ、脳が実行している巧みな計算過程を理解するためにも用いられています(文献4)。最近では、行動や神経のみならず細胞レベルでの様々な情報処理にも応用されています(図4)。計算論的なモデルでは、生命現象の振る舞いの再現よりは、生命現象が実行しているある種の機能性を数学的に表現することが主眼となります。純粋な物理現象には合目的性や機能性は存在しないので、計算論的モデルは生命システム特有の理論ということもできるでしょう。物理モデルと計算論的モデルはそれぞれ現象のメカニズムと機能性を扱うという点で相補的であり、この2つをうまく組み合わせることが生命システムの理解に不可欠です。

いずれにしても良い理論というのは、ニュートン力学や量子力学のように、現象の本質を簡潔に表現する抽象性・概念性と、複雑な現象への適用とそのシミュレーションも可能な具象性・応用性を包含し、直感を超えた知を導いてくれるものです。生命現象を対象にニュートン力学や量子力学に匹敵するような理論が存在しうるのかは自明でないものの、そのような理論に近づく試みは生命システムの普遍的な特性の解明には不可避のステップであると考えられます。

■科学的・社会的意義 科学的知の体系とは、先人が膨大な時間と労力を投資し発見・体得した経験的知を、後人が速やかに習得し、次の知の発見の土台とするものです。記述に基づく知の集約に対し、数学に基づく理論は、明快かつ情報の大幅な縮約に繋がりまた同時に直感を超えた予測性も有します。生命システムに関する知が理論として集約されることにより、様々な応用や新たな発見につながると考えられます。

■参考文献 1)Hodgkin, A. L., A.F. Huxley. (1952). "A quantitative description of membrane current and its application to conduction and excitation in nerve". The Journal of Physiology 117 (4): 500 544.
2)Turing, A. M. (1952). " The chemical basis of morphogenesis". Philosophical Transactions of the Royal Society of London. B 372: 37-72.
3)https://www.aliensaint.com/uo/java/rd/
4)デビッド マー (著), 乾 敏郎 (翻訳), 安藤 広志 (翻訳). "ビジョン―視覚の計算理論と脳内表現". 産業図書 (1987)
5)小林徹也、上村淳. (2013). "確率的細胞システムにおけるベイズ情報処理", 生物物理学会誌, Vol. 53(2): 86-89.

■良く使用する材料・機器 1)技術計算ソフトウェア Mathematica (Wolfram Research)
2)数値計算言語 MATLAB (Mathworks)
3)A4ノート ニーモシネ (マルマン)
4)ペン (ラミー)

H25年度分野別専門委員
東京大学・生産技術研究所
小林 徹也 (こばやし てつや)
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