一般社団法人 日本生物物理学会(生物物理について)

高速分光

「光の力を使って高速の分子の運動や反応をとらえる」

■背景 生物の体の中ではタンパク質をはじめとする、様々な生体分子が化学反応を行い、生体の維持に携わっています。従って生物がどのようにして生きているのかを理解するためには、その様な化学反応の詳細なメカニズムについて調べる必要があります。そしてこれまで化学反応を調べるために数多くの方法が産み出されて来ましたが、もっとも単純なものは2つの反応物を混ぜ合わせて、その後最終生成物がどのようにして出来ていくのかを調べる方法です。この時どのような中間体ができて、それらがどのような反応速度で反応し、さらに温度や圧力などに対してどう応答するのかによって詳細な反応スキームを描くことができます。しかしこのような方法では溶液を混ぜ合わせるのに少なくとも数十マイクロ秒(一マイクロ秒は百万分の一秒)の時間が必要とされるのに対し、多くの化学反応は進行速度が非常に速く、場合によっては数十~数百フェムト秒(一フェムト秒は一千兆分の一秒)という非常に短い時間で起こるため、従来の方法ではリアルタイムで反応を追跡するのが不可能でした。そしてこの制約を乗り越えるために開発されたのが高速分光法であり、歴史的には短パルスレーザーの登場によってそれが可能となりました(図1)。
レーザーは誘導放出という様々な物質からの特殊な発光を増幅することで、限られた一方向のみに進む、特定の波長を持った高強度の光を得ることができる光源として広く使われていますが、もう一つ非常に短い時間だけ発光させることが可能という特徴を持っています。レーザーは1960年に開発されましたが、当時の発光時間はおよそ一マイクロ秒でした。しかしその後の技術革新によって、現在では10フェムト秒程度のレーザー光を化学実験に用いることが可能になっています。(最近ではアト秒レーザー(一アト秒は百京分の一秒)も開発されていますが、あまり生体分子や化学反応の観察には用いられません)これにより試料にこのような超高速レーザーパルスを照射して一度に反応を開始させることで、これまで不可能であった速い化学反応のリアルタイム観測や分子の振動の観察などが可能となり、レーザーさえ購入すれば一般的な研究室でもその様な研究が可能となっています。



図1 短パルス幅のレーザーを使った高速分光を用いれば、様々な反応を観察することが可能になる。




図2 A, B: Salinibacter ruber由来のセンサリーロドプシンⅠ(SrSRI)の光励起後の吸収スペクトル変化。 C: 光励起後の屈折率変化を示すTG信号。 D: A-Cの実験結果をもとに決定されたSrSRIの光反応サイクル。TG測定の結果M中間体には吸収スペクトルが同一で構造がことなる3つの状態があることが明らかになった。

■研究概要 光合成や視覚、DNAの光修復など、生物は光を使って様々な活動を行っています。それを可能にしているのが体の中に存在する光を吸収して機能を発現する「光受容タンパク質」と呼ばれるタンパク質です。私たちはその様な光受容タンパク質の中でも特に微生物のもつ「微生物型ロドプシン」と呼ばれる分子について研究を行っています。微生物型ロドプシンはレチナールと呼ばれる色素を持っており、この色素が光を吸収することで、内外にイオンを輸送したり、細胞が光に対して遊泳運動を行うための信号を伝達したりしています。そして私たちは光を吸収した微生物型ロドプシンがどのようにこのような働きを行うのかを知るため、背景の項で述べたパルスレーザーを用いた高速分光法を使って、その化学反応の実時間観測と詳細な理解に向けた研究を行っています。
このような微生物型ロドプシンの一つにSalinibacter ruberという細菌が持つセンサリーロドプシンI(SrSRI)という分子があります。SrSRIは細菌が光に向かって遊泳する正の走光性のため、光を吸収すると細胞のべん毛の回転パターンを変化させる信号を伝達すると考えられていますが、これまで光を吸収したSrSRIがどのように反応して信号伝達を行うのかは分かっていませんでした。そこでまず私たちはナノ秒の可視光レーザー(一ナノ秒は十億分の一秒)を用いてこのSrSRIの光反応を起こさせ、その後の分子の色(吸収スペクトル)の変化を観測したところ、この分子はKおよびMと呼ばれる2つの異なる色の中間体を経た後、最終的に始状態へと戻ってくる光サイクル反応を行うことが明らかになりました(図2A、B)。さらに今度は光反応中の屈折率変化を測ることができる、過渡回折格子法(TG法)を用いた測定を行ったところ、さらにM中間体には吸収スペクトルが同一で構造がことなる3つの状態があることが明らかになりました(図2C、D)。このような吸収変化を伴わない状態の観測はこれまで困難でしたが、私たちが過渡回折格子法を適用することで、初めて隠された状態の観測に成功しました。これらの状態は信号伝達過程にとって必須なものであると考えられ、現在さらに詳細なその構造についての研究を行っています。(参考文献1)

■科学的・社会的意義 生体反応は生き物が生きていくために必要なものの中で、最も基本的な過程です。その詳細を高速分光で明らかにすることは、生物の理解だけでなく、製薬や医療といった応用的な分野へも貢献が期待されます。

■参考文献 1)Inoue, K., et al. (2011). "Spectrally Silent Intermediates during the Photochemical Reactions of Salinibacter Sensory Rhodopsin I." J. Phys. Chem. B 112(8): 2542-2547.

■良く使用する材料・機器 1) Nd3+:YAGレーザー(INDY 40)(Spectra Physics)
2) フラッシュフォトリシスシステム(浜松ホトニクス株式会社)
3) ステップスキャンFTIRスペクトロメーター(ブルカージャパン)

H24年度分野別専門委員
名古屋工業大学・大学院工学研究科・未来材料創成工学専攻
井上圭一 (いのうえけいいち)
https://www.ach.nitech.ac.jp/~physchem/kandori/index_j.html