一般社団法人 日本生物物理学会(生物物理について)

海馬

「記憶が出来る過程を光で見る:海馬と海馬関連回路の光計測」

■背景 脳は銀河系の恒星の数(約1000億個)ほどの神経細胞から組み立てられた精緻な情報処理装置です。約1.4キログラムの塊である脳の中でも、側頭葉と言われる脳の領域に、海のタツノオトシゴに似た器官があります。これが「海馬」と呼ばれる脳領域です。海馬を取り除くと記憶の形成ができなくなるという症例(患者ヘンリー・モライゾンのケース)を出発点として、海馬は「記憶の座」と呼ばれるほど、「記憶」の責任領域として知られるようになりました。また、その構造の単純さもあり、生物物理学の領域でも記憶研究に関わらず様々な観点から海馬が実験材料として取り上げられ、神経科学に関連した研究の多くがこの領域を対象としていると言っても間違いではないでしょう。ここでは、海馬の神経回路の活動を計測する生物物理学的手段としての光計測法を取り上げます。



■研究概要 海馬の記憶の仕組みを測る手法として、電気活動を計測する電極を用いた「電気生理学的手法」が従来多く用いられており、現在でも多くの発見がなされています。一方、最近よく用いられる方法に「イメージング」という手法があります。海馬の機能を直接「見る」手法としては、「膜電位イメージング」の手法があります。神経回路を構成する多くの神経細胞の信号のやりとりを目で見たいという要求は古くからありました。これを実現したのは、ウッズホールの田崎一二やラリー・コーエンのグループで、特にコーエンが作成した膜電位感受性色素は、その後多くの研究者によって使用されるツールとなりました。我々はこれをより簡便に、定量的に用いることができるように研究を重ね、12時間以上安定に定量的に神経回路の活動を計測する手法として確立しました。これを利用することで、てんかん治療薬(バルプロ酸)を妊娠中に服用することで子供の脳に起こる脳回路の変調を明らかにし、有害化学物質の迅速な検出を可能にする手法を開発しました。さらに、海馬に情報を送る嗅内野からの信号を可視化し、定量しました。また、海馬と密接な関連のある前頭葉の前帯状皮質という領域での神経興奮の様子を詳細に記述しました。

■科学的・社会的意義 海馬の神経回路活動の詳細な解明は、記憶・学習に関連した神経科学の出発点として重要な意味を持っています。海馬以外の脳領野との機能的連関を明らかにしていくことと合わせて、様々な要因・疾病から脳の健康を保つ医薬学的課題で重要であるだけでなく、人工知能(AI)の開発にとっても重要です。

■参考文献 1) Gusain P, Taketoshi M, Tominaga Y, Tominaga T (2023) Functional Dissection of Ipsilateral and Contralateral Neural Activity Propagation Using Voltage-Sensitive Dye Imaging in Mouse Prefrontal Cortex. eNeuro 10:ENEURO.0161-23.2023.
2) 冨永貴志、梶原利一、冨永洋子 (2021) 膜電位イメージングで見えるようになったもの. 生物物理 61:404–408..
3) Tominaga T, Kajiwara R, Tominaga Y (2023) Stable wide-field voltage imaging for observing neuronal plasticity at the neuronal network level. Biophysics Physicobiology 20:e200015.
4) Suh J, Rivest AJ, Nakashiba T, Tominaga T, Tonegawa S (2011) Entorhinal Cortex Layer III Input to the Hippocampus Is Crucial for Temporal Association Memory. Science 334:1415–1420.

■良く使用する材料・機器 1) マイカムカメラシステム・マクロ光学系(ブレインビジョン株式会社)
2) レンズ (ライカ株式会社、株式会社エビデント)
3) オプティカル用品ケージシステム・レンズ等(ソーラボ)

2024年分野別専門委員
徳島文理大学神経科学研究所・香川薬学部
冨永貴志 (とみながたかし)
https://www.bunri-u.ac.jp/ins/lncs.html





 

「神経ステロイドは脳海馬の記憶学習を制御するメディエータ」

■背景 新しい情報伝達物質のスーパーファミリーとして、神経ステロイドが脳神経で独自に合成されていることを発見したので、これがどういう機能をもつのか?を調べるのが課題。
情報伝達物質として勢力を2分するペプチド系と異なり、ステロイド系は長いあいだ脳では合成されないとされてきた。



図1 海馬神経で、記憶の書き込みLTPと消去LTDが行われるときに、同時にシナプスで神経ステロイド(男性・女性ホルモン)合成が起こり→ シナプスのステロイド受容体に作用して、急性的に LTPの強化やLTDの強化が行われる様子を、描いたモデル。
男性・女性ホルモンはスパイン(シナプス後部)の密度を維持して、シナプス伝達能力も維持する。



図2 海馬の男性ホルモン合成酵素 P450(17a) の組織染色(左)とそれがCA1神経細胞に局在していることを示した図(右)。海馬は精巣と独立に男性ホルモンを合成する。
中国の宦官は、脳が男性ホルモンを合成していたので、生殖器が無くても記憶力は低下しなかったわけです。



図3 海馬スライスの単一神経細胞に蛍光色素をマイクロインジェクションした図。 これを共焦点顕微鏡で3次元断層撮影し→Spiso-3D ソフトで解析してスパインの密度と頭部構造を解析する。

■研究概要 脳海馬での記憶のメカニズムを生物物理学と分子細胞生物学で解明する研究を行っている。神経シナプス伝達に伴う、電気信号、シナプスの構造変化、神経ステロイドによるモジュレーション、などを解析している。脳は論理的と言うよりも、感情的なコンピュータであり、脳海馬の記憶学習は感情・精神に強く依存している。感情・精神を制御する伝達物質の神経ステロイドは局所的に急性的に記憶学習を制御する。

■科学的・社会的意義 更年期や老化に伴ってアルツハイマー病などの認知症が問題になっている。男性・女性ステロイドの補充療法は認知症の有力な治療法であり、世界中で1000万人に適用されている。本研究は、このホルモン補充療法が如何に効果を発揮しているかの分子機構を明らかにする意義がある。

■参考文献 1) Hojo Y et al. (2004). PNAS 101, 865-870
2) Mukai H et al. (2007) J Neurochem 100, 950-967
3) Ooishi Y et al. (2012) Cereb Cortex 4, 926-936
4) Mukai H et al. (2011) Cereb Cortex 21, 2704-27011
5) Okamoto M. et al. (2012) PNAS 109, 13100-13105

■良く使用する材料・機器 1)多電極電気生理
2)顕微光イメージング・共焦点顕微鏡・シナプス解析ソフト
3)ステロイドの質量分析

H25年度分野別専門委員
東京大学・総合文化・広域科学
川戸 佳 (かわとすぐる)
https://glia.c.u-tokyo.ac.jp